カーソン・マッカラーズ「木・岩・雲」
昔、「だいたいホンの話」っていうのを書いてたんです。アーカイブの方に残ってるので、よかったら読んでください。
最近、カーソン・マッカラーズの「木・岩・雲」という短編を読みました。
訳者の解説ではひと言も触れられてないけど、この短編のモチーフは、どう考えてもプルーストの「心情の間歇」のことでしょって、思うんですよね。
プルーストといえば、「プルースト効果」ということが有名で、それって、紅茶に浸したマドレーヌの味と香りで昔の記憶が蘇りました、メデタシメデタシ、みたいなことでしょ? って思われているフシがあるんですけど、そういう「あるある」みたいなことじゃあ、多分ないんです。プルーストが言いたかったことって。
プルーストが、そういう「あるある」みたいなことを言っているだけなんだとしたら、『失われた時を求めて』って、ただやたら詳しい回想小説っていうことでしかない、ってことになりかねない。
マッカラーズの「木・岩・雲」とプルーストの「心情の間歇」が交わる箇所っていうのがあって。それはこういうところなんですけどね。
ある男が、一度は結婚した女に逃げられるんです。男は、その女と愛し合ったと思っていたから、なんで逃げられたんだと、その後二年間、女のことを探し回るんです。三年目に入ったときにふと気がつくんです。「あれ? 自分、女の顔もよく思い出せないぞ」と。
女のことをすごい考えて考えて思い出そうとするんだけど、たいしたことを思い出せない。「心が空白だ」って思う。女のことを一所懸命考えようとしても心は空白なんだけど、でも一方でこういうことがあるんです。
「ところが、歩道を歩いていると急に目に入る一枚のガラス。あるいは五セントほうりこんだら鳴りだしたミュージック・ボックスのメロディー。夜、壁に映る影。すると思い出されるんだ。街を歩いていると、そうなることがあるんだ。するとおれは泣いたり、街灯の柱に頭をぶつけたりするんだよ。分かるかね?」
分かりますか?
「どうすれば思い出せるのか、どんなときなら思い出せるのか、とにかく自分ではどうすることもできない。」
「しかし、記憶というものは顔を前に向けている人間には戻ってこないんだ。記憶は横から角を曲がって戻って来るんだ。」
これってそっくりプルーストの「心情の間歇」だし、つまり『失われた時を求めて』なんですよね。
プルーストは『失われた時を求めて』のタイトルを「心情の間歇」にしようかなって思っていた一時期があったくらい、この着想ってプルーストにとって一大事だったんですよね。
この着想(=心情の間歇)のいったいどこがそんなに一大事なのかって、なかなか理解するのが難しい気はしますけどね。
プルーストが『失われた時を求めて』を書く直前に取り組んでいた「サント゠ブーヴに反論する」というエッセイの冒頭の文を、最後に引いておきます。
「日ごと、私は、知性というものに大して価値を認めなくなりつつある。作家が、遠く過ぎ去ったさまざまな印象のうち、何ものかを取り戻すことができるのは、言い換えると、彼自身のうちの何か、つまり芸術の唯一の素材となるものに到達できるのは、知性の埒外でのことでしかないのが、私には日増しによく分ってきつつある」
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