ぼくがどのくらいフロベールに心酔していたかというお話

『フローベール全集』9巻・書簡Ⅱ

 はじめて買った外国文学作家の全集はフロベール全集でした。
 古本で買ったのではなくて、筑摩書房に電話して送ってもらいました。

 そして上の写真は、その『フローベール全集』の書簡の巻の二巻目です。
 「付箋どんだけ貼るねん!」という状態になってます。
 付箋の突き出している部分には、ウォーターマンの万年筆にブルーブラックのインクでメモをしてあります。

 ちなみに、古本屋を始めてからは、本に線引きはもちろんですが付箋も貼らなくなりました。
 このように付箋を貼っていたのは、自分がいつか古本屋になろうとはまったく考えていなかったからです。
 やたらと本を買っている人に言いたいのは、人間いつ古本屋に堕してしまうか分からないので、本にはむやみと線引きしたり付箋貼ったりしない方がいいかもしれないよ? ということです。

 それはさておき。

 書簡の巻の二巻目というのは、主にフロベールが『ボヴァリー夫人』を書いている頃の書簡です。
 ちなみに『ボヴァリー夫人』はフロベールの処女作になるので、『ボヴァリー夫人』を書いている頃というのはつまりまだアマチュアです。

 ところが、まだアマチュアのくせに、この頃のフロベールはめちゃくちゃ偉そうです。
 ルイーズ・コレという女の人に、思いっきり上から目線で文学について講釈を垂れてます。
 芸術とはどういうものか、文学とはどういうものか、小説というのはどういうものであるべきか、ということを、繰り返し繰り返し繰り返し、「何度ほど言うねん!」というほど、書いて送ってます。
 ルイーズ・コレも、よくまあ、「もうええねん!」って言わないでいてくれたものです。

 おかげでぼくたちは、フロベールの芸術観、文学観、小説観というのを、かなり詳しく知ることができます。

 そしてぼくはある時期(つまり全集を買って読んでいた時期)からこっち、フロベールの文学観の影響を、めちゃくちゃ受けてしまったのでした。
 今でもかなりの程度、フロベールの文学観の影響下にあるだろうと思います。

 ただもちろん、影響を受けると言っても、自分がまったくフロベール的な感性を持っていなかったら、フロベールを読んで「うわぁ」ってならなかったと思います。
 つまり、自分にはまったくフロベールっぽいところがなかったのに、フロベールが書いているものを読んだら突然フロベールみたいになっちゃった、っていうのではなくて、もともとフロベールと好みが近いという素地はあったということではあります。

 フロベールがどういうことを書いていて、ぼくはそのどういうところに共感したのか、というようなことを書こうかなと思っていたんですが、引用というのはだいたいみんな読んでくれないものだと思うので、話はこれでおしまいということにしておきます。

 一応最後に、いくつか引用だけ投げ出しておきます。
 奇矯な人は、読んで下さい。
 それでもし、「フロベールの書簡が読みたい!」ってなったら、全集の端本を探して下さい。古本市とかで時々見つかります。

「始末に負えない幻想が、もう一度始めるようにとぼくを駆り立てるのです。行きつくところまで、圧し絞られた脳漿の最後の一滴を使い果すまで、ぼくはやります。分かるものですか! 偶然に幸運が舞い込むことだってあります。自分のやっている仕事を正しく把握し、不屈の意志を持っていれば、相当のところまでいけるものです。ぼくだけが感じ、他の人たちは口にしたことがなく、ぼくには言うことの出来る事どもがあると思えるのです。」

「何かを証明しようとする文学については、優に一巻の書をものするに足るほどの、言いたいことがあります。何かを証明しようと思う途端に嘘をつくことになります。始まりと終りは神のみの知るところ、人間が知ることの出来るのはその中間だけです。『芸術』は、天空における神のように、無限のうちに浮んだまま、それ自体完全なものとして、作者から独立していなくてはなりません。それに、証明しようと志したりしたら最後、人生においても『芸術』においても、およそ惨たる思惑はずれに陥ることは必至です。」

「情熱が詩を作るのではありません。個性を露わにすればするほど効果は弱まります。このぼく自身、いつもその点で誤りを犯してきました。つまり、ぼくはいつも自分の書くものすべてに自分の姿を見せてしまっていたのです。」「一つのことを現に感じていなければいないほど、それをあるがままに表現することが出来ます(一般性を保ち、あらゆる一時的な附随性から免れて、それ自体常にあるがままに)。」

「文学的な価値だけでは、あんなに成功するはずがありません。」「年間、最も売れている本は何か知っていますか? 『フォーブラ』と『夫婦愛』という、ごく下らない二冊です。もしタキトゥスが生き返ったとしても、ティエール氏ほどには売れないでしょう。」

「『アンクル・トム』は狭隘な書と思えるのです。この本は或る道徳的、宗教的観点に拠って書かれていますが、人間の観点に立って書かれるべきだったのです。責めさいなまれる奴隷に同情するためには、この奴隷が立派な男、良い父親、良い夫で、賛美歌を歌い、聖書を読み、彼を鞭打つ人たちを許してやるなどということは必要ではありません。こうなると、高貴な例外的なもの、従って特殊な偽りのものになってしまいます。」