スンシン堂の他愛ないハナシ、内容概要一覧

近頃(2021年秋頃から)イベント毎に、A4用紙裏表いっぱい使って、3000字から4000字くらいの散文を書いて、フリーペーパーとして頒布してます。

基本的には、そのイベントで2、30枚程度配るきりと考えてるんですが、後続のイベントで残っているのを引き続き配ったりもします。

ご要望を頂いたら、バックナンバーを追加で作って、新しいイベントのときに多少持って行くということもします(してます)。

それぞれの回の内容の概要と、いつどこで頒布したかということを、一覧にしておきます。

催事の現場やみつばち古書部で見かけたら、もらって読んでみてもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その一)
――天神さんの古本まつり2021(初出2021年10月15日)
古い世界文学全集の話。世界文学全集にはキキメの巻というのがあるという話。「えいやっ」と本を買ったのは、フローベール全集と澁澤龍彦全集くらいという話。古本を売るに際して、むやみと高い値付けはできないという話。ぼくにはコレクター気質がないという話。プルーストくらい好きな作家を日本の作家のなかに見つけられないという話。ガイブン入門としてプルーストはおすすめか? という話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その二)
――阪神古書フェア2021年10月(初出2021年10月20日)
人にはそれぞれ独特の質感があるなあという話。私はダメな人間だけど、端的に特別な在り方をしているという話。自分の固有の質感は自分ではよく分からないという話。誰でも多かれ少なかれ、他者から軽んじられていると感じるものではないかという話。そして、プルーストもまた、自分が軽んじられていると感じていた人だったのではないかという話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その三)
――みつばち古書部2021年11月(初出2021年11月6日)
古典ガイブンからオススメをどう選んだらいいのかという話。ぼくは趣味が悪いので、自分の好きな本のリストがそのままオススメのリストにならないという話。古典ガイブンの面白さはあらすじだけでは表現できないという話。中村真一郎流小説のたのしみ方七種類の話。ジャンル小説と古典ガイブンの違いの話。プルーストは小説の書き方をなかなか見いだせず、やっと小説を書き始められたのは三十七歳くらいの時という話。古典ガイブンを面白がるコツの話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その四)
――たにまち月いち古書即売会2021年11月(初出2021年11月19日)
ぼくがなぜガイブン好きなのかという話。澁澤龍彦のガイドでガイブンに入門したせいで仏文寄りでかつ変な趣味になったという話。いわゆる趣味としての競馬と将棋の話。柳瀬尚紀と若島正さんの話。子どもの頃、ファンタジーRPG好きだった話。世界文学全集に名前を連ねているような作家は現代日本でも本当にメジャーといえるのかという話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その五)
――たにまち月いち古書即売会2021年12月(初出2021年12月17日)
他者にも自意識があるということにクラクラした話。物の世界と心の世界のどちらが大きいのかという話。他者の内面をいかにして知るのかという話。「さしあたって」の話。心は言語でどれくらい表現できるのかという話。人は思ってもいないこと(自分が信じているわけでもないこと)でも言ったり書いたりできるという話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その六)
――歳末阪神古書ノ市2021年12月(初出2021年12月23日)
ぼくが文章を書くのは下手の横好きという話。下手なのになんで書くのかという話。「友だちいないけど」というギャグの話。思ったことをあまり口に出さないのは、シャイなのともう一つ、自分の「思い」に公共性がないからという話。ツイッターは告知・広報とすっとぼけたツイートしかしないという話。裏アカ・別アカあっても誰にもフォローされないという話。コミュニケーション・スキルが絶望的に無いという話。自己肯定感欠如の話。自分と似た人(社交ベタな人)が案外たくさんいると思っているという話。そういう人たちと繋がる方法としてのこの文章であるという話。あらかじめ公共性がありそうなことを書くのは文学の仕事じゃないという話。ぼくは文学オタクなんですという話。

スンシン堂の他愛ないハナシ(その七)
――たにまち月いち古書即売会2022年1月(初出2022年1月21日)
文学オタクは言い過ぎでしたという話。でも最近のマイブームが「文学」なんですという話。「文学」の直前は「ルービックキューブ」でしたという話。ルービックキューブが趣味であるとは何をすることかという話。最近の文学ブームはプルーストきっかけかな? という話。プルーストって『失われた時を求めて』を書いた人ですという話。プルーストが分かっちゃったので、やっと次に行けるという話。次はビュトールとドゥルーズに行くよって話。

スンシン堂の他愛ないハナシ(その八)
――GIVE ME BOOKS!! SUMMER 2022(初出2022年8月)
いろいろな語彙について、三文だけで何か言う、ということをはじめてやった回。「RPGマガジン」とか「コミックコンプ」とか「米田仁士」とか、漫画アニメ系オタクだった過去に触れてます。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その九)
――天神さんの古本まつり2022年秋(初出2022年10月)
天神さんの古本まつり25周年記念に作ったトートバッグの話。あと、この時、裏バナシというのもやっていて、そこではぼくがプルーストについて思っていることを書いてます。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その10)
――みつばち古書部2023年1月(初出2023年1月)
年末年始はビュトールの『心変わり』とドゥルーズの『プルーストとシーニュ』を読んでいた、という話。「ビュトールの小説って、どうなんですか?」。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その11)
――みつばち古書部2023年2月(初出2023年2月)
プルーストの手帖に書きつけてあった「内部の世界だけが重要である」という一文について。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その12)
――みつばち古書部2023年3月(初出2023年3月)
プルーストの小説は「感じるのが先、知るのは後」ということをめぐる小説だ(と、ドゥルーズも言っている)、という話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その13)
――阪神古書ノ市2023年4、5月(初出2023年4月)
「本を読むということについて」。文学なんていう、読んでも読まなくてもいいようなものを好んで読む人は、たぶん諧謔(ユーモア)が通じる人だ、というような話。

■スンシン堂の他愛ないハナシ(その14)
――あしやつくるば2023年5月(初出2023年5月)
「好きな文庫レーベルは?」。ぼくはここでは、ちくま文庫、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫、河出文庫、光文社古典新訳文庫をあげました。皆さまはどうですか?

最近書いている散文について:その動機と方法のこと

最近イベントで配布しているペーパー

 最近、イベントごとにチラシを作って配布するということをはじめました。一箱古本市とか同人誌即売会みたいなイベントでは、その日だけ配るペーパーを作るというような文化があったかと思うんです。そういうのに以前から憧れがあって、「やりたいな」ということはずっと思ってました。
 何度かチャレンジしてみたことはあったんですが、だいたい古本即売会の直前というのは異常にバタバタしていて、ちょっと腰を落ち着けてペーパーのために文章を考えて書いてみる、なんていうことをする余裕があることはめったになかったんです。
 それなので、たまたま余裕のあるときは出せたけど、そういう機会はめったにないということで、最近ではもう試みようとさえしてませんでした。
 このたび、そんなに余裕があったわけでもないのに、天神さんの古本まつり、阪神古書フェアと、続けてペーパーを出せたのは、書く動機を与えられたことと、書く方法を思いついたことという、二つのことがたまたま重なったからでした。

 まず動機についてですが、これは、これまでに出した二つのペーパーのどちらでも触れていたことですが、ある人に「外国文学のおすすめ」を聞かれた、ということがじっさいにあったということです。
 聞かれた瞬間に、「じゃああれとこれとそれなんかをおすすめします」みたいに言えたらよかったんですが、そういう決断力のないぼくは、悩んだ末に「それ文章にして書いてみるので、書けたら読んでください」というような答えをしたのでした。
 つまり、おすすめ外国文学のお話を書くという約束を、ある人と交わしたのでした。これが動機です。
 この問いにまっすぐ答える準備も一方ではしてます。まっすぐ答えるというのは、おすすめ小説のリストを作って、どうしてそういうリストになったのかの選評(?)みたいなものを書く、というようなことです。これはこれでいずれ実現させるつもりですが、まあまあ時間がかかりそうなので、のんびり待っていてもらえたらなと思っています。

 次の問題は書く方法でした。
 ペーパーを作るのにそんなに時間はかけられないので、いろいろ思い浮かぶ方法のうち、ほとんどのものは採用できないことはすぐに分かりました。
 たとえばおすすめの小説をがっつり紹介する、書評のようなものをやるとしたら、まずその小説を再読するとかいうところから始めないといけないわけで、そこまでの時間はかけられないよ、というようなこととか。
 それで思いついたというか、「こういう書き方でどうだろう?」と直感したのが、次のような書き方でした。
 テーマはぼんやりと外国文学のこととする。書いているうちに外国文学の話になればいいし、ならなかったらそれはそれで仕方ない、くらいにぼんやりとさせておく。
 そしてまず、なんでもいいから一つのフレーズを書いてみる。そのフレーズで続きが書けそうになかったら別のフレーズを書く。いくつか書いているうちに、このフレーズを採用しようと決めたら、そこからはその先をとにかくずるずると書き続けるようにする。
 最初のフレーズから、できるだけ飛躍を少なくして文章を書き継ぐようにする。一つの文とその次の文の間の飛躍はできるだけ少なくするけれど、書き続けるうちにできるだけ「遠くに行こう」ということは考える。つまり書き出しのフレーズは、べつにその文章全体の主題でもないし、中心的なトピックというわけでもないと思っておく。
 そうやってぐずぐずとした書き方で書き続けて、紙面が尽きたらそこですっぱり終わる。文章全体のまとめをするとか、振り返るとかしなくてもいい。うまくスタートの話題に回帰してきれいに終われることがあれば、それはそれでいいけど、そうならなくても気にしない。
 そして最後に、この書き方用の「文体を作る」ということを考えました。

 われながらなかなかひどい書き方だと思います。人に読んでもらうための文章の書き方ではないと思います。
 世の中によくある「文章の書き方」の方法の裏を行くようなやり方かなと思います。
 こんな書き方をしていたら、読んでくれる人はほとんどいなくなると思います。みんなに読んでもらいたいのであれば、もうちょっと文章作法を守った方がいいんじゃないかと、思わないでもないんですが……。
 でも、ある一人の人間が発する言葉っていうのは、べつに「みんな」に届く必要はぜんぜんないと思うんです。
 いまの世の中には、というか、多分いつの世の中でも、「みんな」に届けようとすることで、多少のポピュラリティーを得るのと引き換えに、いろんなことを失っている表現っていうのが、すごくあるんじゃないかなと思っていて、その裏を行くっていうやり方も、まあやってみてもいいんじゃないかなと。
 ポピュラリティーを狙うことで失ってしまうものの方を取りに行く(ポピュラリティーを犠牲にして)という「書き方」を、現在進行形で模索中です。

 結果、ただ読みにくい文章を量産するだけになるかもしれませんが、たくさん書くことでなにか大切なものを掬い取れたらいいなと思ってますので、「寸心堂のやることだったら、ちょっと付き合ってやろうか」という心の広いかたがいらっしゃったら、ぜひ今後とも、新しいチラシを持っていって、たまに読んでもらえたら嬉しいです。

 たにまち月いち古書即売会も、来てね!

ぼくがどのくらいフロベールに心酔していたかというお話

『フローベール全集』9巻・書簡Ⅱ

 はじめて買った外国文学作家の全集はフロベール全集でした。
 古本で買ったのではなくて、筑摩書房に電話して送ってもらいました。

 そして上の写真は、その『フローベール全集』の書簡の巻の二巻目です。
 「付箋どんだけ貼るねん!」という状態になってます。
 付箋の突き出している部分には、ウォーターマンの万年筆にブルーブラックのインクでメモをしてあります。

 ちなみに、古本屋を始めてからは、本に線引きはもちろんですが付箋も貼らなくなりました。
 このように付箋を貼っていたのは、自分がいつか古本屋になろうとはまったく考えていなかったからです。
 やたらと本を買っている人に言いたいのは、人間いつ古本屋に堕してしまうか分からないので、本にはむやみと線引きしたり付箋貼ったりしない方がいいかもしれないよ? ということです。

 それはさておき。

 書簡の巻の二巻目というのは、主にフロベールが『ボヴァリー夫人』を書いている頃の書簡です。
 ちなみに『ボヴァリー夫人』はフロベールの処女作になるので、『ボヴァリー夫人』を書いている頃というのはつまりまだアマチュアです。

 ところが、まだアマチュアのくせに、この頃のフロベールはめちゃくちゃ偉そうです。
 ルイーズ・コレという女の人に、思いっきり上から目線で文学について講釈を垂れてます。
 芸術とはどういうものか、文学とはどういうものか、小説というのはどういうものであるべきか、ということを、繰り返し繰り返し繰り返し、「何度ほど言うねん!」というほど、書いて送ってます。
 ルイーズ・コレも、よくまあ、「もうええねん!」って言わないでいてくれたものです。

 おかげでぼくたちは、フロベールの芸術観、文学観、小説観というのを、かなり詳しく知ることができます。

 そしてぼくはある時期(つまり全集を買って読んでいた時期)からこっち、フロベールの文学観の影響を、めちゃくちゃ受けてしまったのでした。
 今でもかなりの程度、フロベールの文学観の影響下にあるだろうと思います。

 ただもちろん、影響を受けると言っても、自分がまったくフロベール的な感性を持っていなかったら、フロベールを読んで「うわぁ」ってならなかったと思います。
 つまり、自分にはまったくフロベールっぽいところがなかったのに、フロベールが書いているものを読んだら突然フロベールみたいになっちゃった、っていうのではなくて、もともとフロベールと好みが近いという素地はあったということではあります。

 フロベールがどういうことを書いていて、ぼくはそのどういうところに共感したのか、というようなことを書こうかなと思っていたんですが、引用というのはだいたいみんな読んでくれないものだと思うので、話はこれでおしまいということにしておきます。

 一応最後に、いくつか引用だけ投げ出しておきます。
 奇矯な人は、読んで下さい。
 それでもし、「フロベールの書簡が読みたい!」ってなったら、全集の端本を探して下さい。古本市とかで時々見つかります。

「始末に負えない幻想が、もう一度始めるようにとぼくを駆り立てるのです。行きつくところまで、圧し絞られた脳漿の最後の一滴を使い果すまで、ぼくはやります。分かるものですか! 偶然に幸運が舞い込むことだってあります。自分のやっている仕事を正しく把握し、不屈の意志を持っていれば、相当のところまでいけるものです。ぼくだけが感じ、他の人たちは口にしたことがなく、ぼくには言うことの出来る事どもがあると思えるのです。」

「何かを証明しようとする文学については、優に一巻の書をものするに足るほどの、言いたいことがあります。何かを証明しようと思う途端に嘘をつくことになります。始まりと終りは神のみの知るところ、人間が知ることの出来るのはその中間だけです。『芸術』は、天空における神のように、無限のうちに浮んだまま、それ自体完全なものとして、作者から独立していなくてはなりません。それに、証明しようと志したりしたら最後、人生においても『芸術』においても、およそ惨たる思惑はずれに陥ることは必至です。」

「情熱が詩を作るのではありません。個性を露わにすればするほど効果は弱まります。このぼく自身、いつもその点で誤りを犯してきました。つまり、ぼくはいつも自分の書くものすべてに自分の姿を見せてしまっていたのです。」「一つのことを現に感じていなければいないほど、それをあるがままに表現することが出来ます(一般性を保ち、あらゆる一時的な附随性から免れて、それ自体常にあるがままに)。」

「文学的な価値だけでは、あんなに成功するはずがありません。」「年間、最も売れている本は何か知っていますか? 『フォーブラ』と『夫婦愛』という、ごく下らない二冊です。もしタキトゥスが生き返ったとしても、ティエール氏ほどには売れないでしょう。」

「『アンクル・トム』は狭隘な書と思えるのです。この本は或る道徳的、宗教的観点に拠って書かれていますが、人間の観点に立って書かれるべきだったのです。責めさいなまれる奴隷に同情するためには、この奴隷が立派な男、良い父親、良い夫で、賛美歌を歌い、聖書を読み、彼を鞭打つ人たちを許してやるなどということは必要ではありません。こうなると、高貴な例外的なもの、従って特殊な偽りのものになってしまいます。」

売れない本の話「ノーベル賞文学全集」

 ノーベル賞文学全集という本があります。
 全集というくらいなので、一冊きりじゃなくて、全二十数巻には及ぶものです。
 全部は持っていないので、全何巻なのかは知りません。

ノーベル賞文学全集

 この本は、どれか一冊あれば寝るときの枕に困らないというような分厚い頑丈な作りの本です。
 そのうえ装画はピカソだし、編集顧問は川端康成というような大変立派な本です。
 いい夢が見られそうです(悪夢を見そうって気がしないでもないですけど)。

 しかし、こんな立派な本ですが、古本即売会で並べていても、まあ売れません。
 いまどき大きい重い本というのは流行りません。

 それに、よく知られているような作家の場合、この全集に収録されている作品はしばしば文庫で読めたりします。
 名前を見ても「誰やねん」という作家の場合は、この本でしか読めないかもしれないというような作品が収録されているような気がしますが、「誰やねん」という人の本を買おうという人はなかなかいません。
 そういうようなわけで、この大きい重い、置いていても邪魔になるような本を買おうという人は、なかなかいないということになります。

 しかし、この本にもいいところがあります。
 一つはカラー挿絵が入ってることなので、古本屋で見かけたら、とりあえずどんな挿絵が入っているかだけでも確認していただけたらと思います。

 この本の一番面白いところは、選考過程を知ることができることと、受賞者の受賞演説が読めることかなと思います。
 川端康成が受賞したとき、他にどんな日本人が候補に挙がっていたかというようなことが、選考過程を読めば書いてあります。
 誰が受賞したときでも、他にどんなライバルがいたのかということが、たいてい書いてあります。

 世の中には、芥川賞を受賞した作品を読むより選評を読む方が好きという倒錯した趣味の持ち主が少なからずいると思うんですが、そういう人にとっては選考過程というのはなかなか面白いかもしれません。

 あとやっぱり受賞演説です。

 この本があまりにも売れないようだったら、そのうち受賞演説のページだけ破って自分専用のスクラップブックを作ろうかと思ってます。
 実際そんなことしないで済むように、ぜひみなさん買ってください。

 言いたいこと(買ってね)は言ったので、この先はおまけです。

 ぼくのお気に入りの受賞演説を紹介しておしまいにします。
 カミュの受賞演説です。

「私が自分の芸術と作家の役割とについて抱いている理念」、「この理念がどういうものであるかを、感謝と友情の想いをこめてできるかぎり手短に申し述べることを、せめてはお許し下さい。」

 と言って、カミュはそれについて語ります。
 全体はまあまあ複雑なことを言っているんですが、ぼくがとくに感じ入った部分だけ抜き書きします。

「私自身は自分の芸術をぬきにしては生きてゆくことができません。だからといって私は、この芸術をあらゆるものの上に位置づけたことは一度もないのです。まったく反対に、芸術が私にぜひとも必要であるのは、芸術がなんぴとからも切りはなせぬものであり、また、この私がありのままの姿で、あらゆる人びとと同じ地平で生きることを芸術は許してくれるからです。」

「私の見解では、芸術は孤独な歓びではありません。芸術とは、だれにも共通する苦しさと喜びの特権的イメージを、できるかぎり多くの人びとに提供して、彼らを感動させる一方法なのです。それゆえに芸術は芸術家が孤立しないことを強制し、芸術家をこの上なく地味で、この上なく普遍的な真実に服従させます。」

「そして、よくあるように自分が他の人びとと異なっていると感じたために芸術家としての道を選んだ者は、自己と万人との相似を認めなければそのさき自分の芸術を、そしてまた自分の差異を育ててゆくことができないということを、たちまち学ぶにいたるのです。自己から他者へのこの絶えざる往復運動のうちに、また自分になくてはかなわぬ美と離脱することのできぬ共同体との中間の地点で、芸術家はみずからを鍛えあげてゆくのです。」

「だからこそ、真の芸術家たちはなにものも軽蔑しません。裁くのではなく、理解しなければならぬ、それが彼らの義務なのです。」

 若いときに美に打たれた人って、ときどき、世を拗ねた人みたいになることがあるように思います。
 自分はこんなにも崇高なものに惹かれているのに、世の中ってなんて俗っぽいんだと。
 そういう気持ちでいる間は、その人はディレッタントには成れても芸術を作る人に成れないのかもしれないなぁ、なんてことを思いました。

 たにまち月いち古書即売会が、6月18日(金)から6月20日(日)まであります!
 大阪古書会館で、毎日10時から18時まで、最終日は16時までです。
 寸心堂、久しぶりに出ます。ピンチョンとかフランス語の洋書とか並べると思います。