だいたいホンの話(10)

電子書籍専用端末はKindleを持ってます。

というわけで、電子書籍はもっぱらアマゾンでKindle版を買います。

とはいえ、あまりたくさん電子書籍を買ってはいません。

どっちも選べるならたいてい紙の本の方を買ってしまうので。

だから、電子書籍で買ったもので、あとから振り返って「この本は買ってよかったなー」って思えるものは、ほとんどないんです。そうなりそうなものはまず間違いなく紙の本の方を買ってますから。

数少ない当たりの一つはウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』でしょうか。

このタイトルの本を電子書籍で読んだというのもちょっとした皮肉ですけども。

何が当たりかって、単行本2940円のものをKindle版1344円で買えたことです。

ところがいまみるとKindle版でも2240円してました。

僕が買った時は、特別セールでもやっていたのかな?

 

だいたいホンの話(9)

kindle紙の本って一冊でも意外とかさばったりするので、出かける時は電子書籍を読むようにしよう、なんて思ったこともありました。

というか、今もちょっとそう思っているんだけど、問題は、読みたい電子書籍がなかなか無いことですね。

いや、最近は無いこともないんだけど。読みたい本が紙の本とともに電子書籍でも出ていたりします。でも、紙の本とほとんど変わらないくらいの値段するんですよね。

同じお金を出すんだったら、まだまだ紙の本の方がいいなと思っちゃう。電子書籍の方がいいところは「かさばらない」くらいで、他は圧倒的に紙の本の方が物としての魅力があると感じちゃう。

僕としては、電子書籍の立場は、単行本に対する文庫本みたいな感じで、紙の本に対する電子書籍という立場を取ってくれたらいいなと思う。

どういうことかっていうと、文庫本って単行本と同時には出なくて、だいぶ後になってから出るけどとりあえず安いっていう。

だから電子書籍も、紙の本と同時に出てくれなくていいから、結構前に出たっていう本をとにかく安めの値段で出して欲しいなと思う。

単行本1600円 > 文庫本700円 > 電子書籍300円

みたいな感じだったら、かなり電子書籍も買うと思うなぁ。僕は。

 

だいたいホンの話(8)

IMGP1085 本のカバーといえば。

あの、新刊本屋で本を買うと「カバーかけますか?」とか聞いてくれるあのカバーのことですけれども、僕は昔はカバー断る派でした。

最近は、普通に自分が読みたくて買った本であっても、いずれ自分のお店で売ることになるんだろうと思うから、できるだけ本を傷つけない・汚さないようにと、書店ではカバーをつけてもらうことが多くなりました。今ではカバーお願い派です。

昔、自分がいずれ古本屋になるとは思っていなかった頃(まあ、けっこう最近まで思っていなかったんですけど)、ぜんぜんカバーというものをつけませんでした。

家で読む時はもちろん、外出中、主に電車の中やなんかで読む時も、とくにカバーをかけようと思わなかった。

ただ、プルーストの『失われた時を求めて』の集英社版の1巻を毎日持ち歩いて読んだ時は、「ああ、カバーしておくんだった」と思いました。当時まだ古本屋ではなかったので、売ることを考えてそう思ったのではないんだけど、とにかく帯が擦れに擦れてものすごい色落ちしたんですよね。

この集英社版の帯って、金みたいな色なんです。ちょっとキラッとした。これが擦れて色落ちするとそうとう残念な感じになるんです。

で、『失われた時を求めて』の1巻です。これがまあまあ長いんです。主人公が登場して床について寝るんだか寝ないんだかだけで100頁くらいあるとか、そういう意味で長いって話じゃなくて、もう単純に文字の量・情報の量が多い。1巻は本文400頁くらいのものだけど、この400頁は赤川次郎の3000頁くらいのイメージですよ。

要するに読むのに時間がかかるわけです。毎日持ち歩いて読んでも、当時3、4週間かかったと思う。それだけの日々、鞄に入れて持ち歩いたために帯は擦れに擦れてすっかり色落ちしてしまいました。

色落ちしたそれと2巻の新しい帯と見比べて、その時は「次からはカバーかけて読もう」と、さすがに思ったのでした。

 

だいたいホンの話(7)

IMGP0998 昨今電車内では、スマートフォンをいじっている人の方が本を読んでいる人よりもたいていはるかに多いですが、先日市の帰りに乗った車両では、自分を含めて少なくとも10人が紙の本を開いて読んでました。

1、2、3……って指折り数えたので、10人はいたのは間違いないです。

お昼間で、車両に乗っている人の全体の数もものすごく多かったわけでもないので、4人にひとりは紙の本を読んでるというくらいの感じでした。

なかなか壮観でした。

僕はデジタルガジェットも実は好きなんだけど、でも、本を読んでいる人を見かけるほうがなんか嬉しい。べつに本を売る仕事をしているからっていうんじゃなくて、この仕事を始める前からそうでした。

電車内で本を読んでいる人を見かけると、あの人は何の本を読んでるのかなぁと気になったりなんかして。

まあでも、あんまりじろじろ観察したりはしませんけど。

ちらっと見えた情報から類推するとか、ちらっと見たら著者の名前くらいは判別できたりだとか、表紙の感じでバッチリ何か分かったりとか、いろいろ。

まあ、ぜんぜんわからないことのほうが多いですけど。カバーかけている人も多いですしね。

だいたいホンの話(6)

IMGP0946

高校の時教科書で読んだ森鴎外の小説は『舞姫』だったんですよね。『舞姫』の冒頭は次のような感じ。

「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」

同じ鴎外でも『青年』なんかだと、もうちょっと高校時分の僕でも読みやすかったのではなかろうかと思う。『青年』の冒頭は次のような感じ。

「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。」

そうとう後者の方が読みやすいと思う。それもそのはずで、『舞姫』は明治23年で『青年』は明治43年。

現代人は20年経ったからといって文体がころっと変わったりしないだろうけれど、明治時代の日本語の書き言葉はすごい勢いで変化したみたい。僕自身で明治時代の文章を研究したことがあるわけじゃないけれど、中村真一郎の『文章読本』やなんかにその辺りことが書いてあったのではないかなぁ。

で、高校の教科書はなぜ『舞姫』だったのだろう。

鴎外の文章に触れるのが『舞姫』が最初だったら、他の鴎外の文章を読んでみようっていう気がしなくなっちゃいそう。

僕がいま、高校時代の自分に勧めるとしたら、『ヰタ・セクスアリス』をオススメするかなぁ。ま、高校の教科書には一番載りそうにない作品だけど。