文庫レーベル別思い出の一冊(河出文庫編):澁澤龍彦『黒魔術の手帖』

これもおそらく自分で買ったのではなく、兄が買った物が家にあって、それを読んだのだろう。

この本が、はじめて読んだ澁澤龍彦。

その時は澁澤龍彦のことを何も知らないで、タイトルや扱っている話題で読んでみようと思って手に取った。

前に呉茂一『ギリシア神話』について書いた時と同じく、ファンタジー的な意匠に対する興味・関心で読んだだけで、書いた人のことについては、最初は特に注意を払っていなかったと思う。中学2年生くらいの頃。

ところが、この本を手にしてから6、7年後には、『澁澤龍彦全集』を買い揃える青年に育っていた。その間に何があったのだか。

いまこの本を読み返すと、中学時代の自分はこれをどんな気持ちで読んでいたんだろうかと思う。

「アグリッパやパラケルススによって見事に大系づけられた、古代から伝わる自然哲学風な高等魔術の原理によると、この宇宙には地の精霊グノーメ、水の精霊ウンデネ、空気の精霊シルフェ、火の精霊サラマンデルなどといった、いわゆる四大の精が存在しているのであるが……」

こういうのを読んで、まさか「なるほどこの宇宙には精霊ってのが存在するのかー」と思っていたわけではあるまい。

あるまいとすると、さてこういう記述にどういう距離感で接していたのだろうかと考えてみても、よく分からない。思い出せない。

自分のことなのに、子供の頃の「思い」がこんなにも分からないとは。考えても考えても真っ暗で、ちょっとせつない。

でも、ある時ふっと、思い出すことがあるのではないかと思ってもいる。「あ、あの時、こんなこと思ってたんだった」って、思い出せる瞬間が。

プルーストの例のあれ。紅茶とプチット・マドレーヌのやつ。無意志的記憶っていうの。あれがそれで、僕の身の上にもそれが起こることもあるだろうと思っている。

プチット・マドレーヌのエピソードの直前には、以下の文があって、無意志的記憶について、プルースト自身がはっきり説明してくれている。

「過去を思い起こそうとするのは無駄な行為である。知性のあらゆる努力はむなしい。過去は知性の領域の外、知性の手の届かないところで、何か具体的な、私たちが考えもしなかった事物のうちに(そうした事物が私たちに与える感覚のなかに)隠れている。死ぬ前に私たちがそうした事物に出会うか出会わないかは偶然による。」
――プルースト『スワン家の方へⅠ』(光文社古典新訳文庫・高遠弘美訳)

偶然によるんですって。僕の身の上にはそれが起こることなく死んでいく可能性もあるのかー。嫌だー。

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